2016年4月21日木曜日

賢者の巻物 ⑦ 「存在と時間(上)」ハイデガー

  机の引き出しからなくなったトンカチを探したら、机の上にあった。トンカチが宙に浮かない理由を考えたら、万有引力の法則があることが分かった。教科書で調べたら、ニュートンがこの法則を発見したという事実があった。物がある。法則がある。事実がある。

  何かがあるかどうか、僕たちは探したり考えたり調べたりします。もちろん、物事が「ある」ということがどういうことかなんて分かっている、つもりです。でも、「ある」って何?と聞かれても、簡単には答えられません。「存在」を、定義できないということです。そもそも、質問がおかしいです。「ある」がどういうことかなんて、分かりきったこと、であるはずなのですから。

  第一次世界大戦後のドイツで哲学を講じていたハイデガーは、師のフッサールから「現象学」という、認識と存在に関する哲学を学んでいました。「現象学」は、あらゆる学問上の概念や日常的な概念に基づく判断をいったん保留して、純粋な意識の前に現れる「事象そのもの」を捉え、それを全ての学問の基礎にしようとする哲学として提示されていたのですが、この現象学の 方法を使って、「存在する」とはどういうことかを究明したのが、『存在と時間』です。

  この本は「存在」について探求していますが、それは、「なぜこの世界は存在しているのか」といった存在の起源の探究ではなく、「世界は本当に存在しているのか」といった存在についての証明でもありません。あくまでも、「ある」とはどういうことなのかについての究明を目指しています。そして、その究明により、私達にとって分かりきった「存在する」が、私たちに定義しがたい理由も見えてきます。「ある」が分かりきったことになっているのは、私達が、存在を存在させる存在として存在している存在だからでしょう。

  『存在と時間の第一編では、このように実存を生みだす人間を「現存在」と呼び、現存在が自己や事物を存在させる構造を「配慮・了解・解意」の順で説明しています机上にある物は、釘を打とうとする時、叩くという用具性が了解され、トンカチとして解意されます。机はトンカチが置いてある場所という用具性を持って現れ、それらがある「所」として「空間」が現れます。そして、空間の広がる「世界」というものも現れます。これは、現存在を含め全ての「存在」が「世界-内-存在」であることを開示しています。

  現存在は、世界内の共同現存在たる他の人間に、自分の解意したことを「言明」します。言語による会話は、存在を言明することであるはずだったのですが、世間話として交わされるうちに存在は曖昧になります。現存在は、この世間話の世界に溶け込み、非本来性へ投げ出されて「頽落」した状態を日常としているのです。

  では、非本来性へと頽落した現存在は、どうやって本来性を取り戻すのでしょうか?そして、「ある」ということは、どのように「時間」と関わっているのでしょうか?そもそも「時間」とは、なんなのでしょうか?
  その探求は、第2編へと続いて行きます。


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