2016年1月28日木曜日

哲人の記 10  カント


理性とは、どこまで正しいものなのでしょう。理屈は通っていても、おかしな論理というものはあります。白を黒にひっくり返す弁護士の詭弁は、大変頼もしいものではありますが、理に適っていても必ずしも正しいとは感じられない時もあるでしょう。でも、論理が正しい限り、間違いの指摘もできません。

18世紀のヨーロッパ、ドイツ人のイマヌエル・カントは、理性について考えました。理性はどこまで正しく、何のためにあるのかということについて。

彼はまず、正しい認識とは何かを考えました。そして、事物そのものが人間に認識されるのではなく、人間の認識の形式が事物の有り方を決定しているのだと考えました。知る対象となる事物は、まず視覚や聴覚や臭覚などの感覚としてとらえられますが、とらえられたものは動物の感性が作り出す映像や音や匂いであって、「物自体」ではありません。動物の感性が、事物の有り様、つまり現象を形作っているのです。特に、動物の感性は、空間と時間という形式を持っており、その形式に基づいて事物が感じ取られるのだと、カントは言います。空間や時間は動物が事物を感じる形式であり、事物を感じることで、初めて対象と共に我々の前に生成するのです。

しかし、感じるだけではまだ認識とは言えません。感性に受け取られた対象は悟性によって仕分けられ、統合され、「犬」や「犬が走る」といった、物や事として認識されるのです。この仕分けと統合は、「分量」「性質」「様態」「関係」といったカテゴリーに従って行われるそうです。これらのカテゴリーは生まれた時から人間悟性に備わっている先天的な形式で、カントは、感性と悟性の形式に沿って認識される現象だけを、客観的実在、科学的実在としました。

ですが、人間は、現象の認識と悟性カテゴリーを基にして「推論する力」、理性も持っています。理性の展開する推論は、数学的に確実なものもありますが、感性によって感知できないものを実在するように見せる詭弁やパラドックスを生み出してしまう性質もあります。それらの中には、魂とか、世界とか、造物主とかといった概念も含まれます。これらは感性で感知できない点で、客観的・科学的に実在するとは言えません。ですが、悟性カテゴリーに沿ってより根源的なものを探求していけば、必然的に導き出される哲学的理念でもあります。実在するとは言えないのに、実在しないと否定して捨てることもできません。なぜこんな理念が生まれるのか。ここにカントは、理性と哲学の真の目的を見い出します。

理性と哲学が実証不能な根源的概念を求めてしまう理由。それは、根源的に不可測な自分の生の中で、いかに行動するべきか、いかに生きるべきかという、行動指標を求めるからです。理性は、進むべき理想を作って人間に示し、導いてくれる灯火です。

それに従うか否かは、意志の問題。

2016年1月17日日曜日

哲人の記 9  パスカル


何かを認識することと何かを信頼することは、別のことです。神についても、その存在を認めることと、その存在を信頼することは、別のことでしょう。

神は、科学的には観測できません。その点では、物理的には実在しない人間の人格や、正義や愛、基本的人権、あるいは民主主義や平和主義の正当性などと等しいと言えます。つまり、全てその実在についての科学的根拠はありません。一人の人間でも、その人の友、恋人、家族、敵の前で、その人がどんな役割を果たしているかにより、認識される人格は異なります。ある人はあなたを信頼できる人と認識して友となり、ある人はあなたを信頼できない人と認識して敵となるかもしれません。その人格を認識することと、その人格を信頼することは異なります。認識があっても、信頼がなければ、協力し合う関係は築けません。

17世紀のヨーロッパ。キリスト教によって秩序と文化を育んできたこの地は、コペルニクスやガリレイ、デカルトなどの登場により近代合理主義が開花していきます。そんな時代、数学や物理の研究において早熟の天才と言われた哲学者がいました。名前はブレーズ・パスカル。10代で機械式計算器を開発したり、幾何学におけるパスカルの定理を発見したり、力学におけるパスカルの原理を発見するなど、30歳までに数学と科学の歴史に名を残す偉業を成し遂げています。

 その一方で彼は、デカルトのように理性によって神の存在を証明しようとしたり、または否認しようとする当時の合理主義を批判し、敬虔なキリスト教徒として、「キリストの愛」、「神の律法と恩寵」、そしてそれを伝える「聖書」という物語への信頼を表明し、唯一の正しき宗教として擁護しました。

キリスト教の神は、人間に愛の癒しをあらしめている存在であり、社会に倫理と法をあらしめている存在です。もし、聖書の物語を偽とし、この宗教を偽とするなら、それはヨーロッパの秩序を作った愛の倫理をも偽として破壊することになります。愛がイエス=キリストを起源とする以上、その物語の権威を信じなければ、愛の倫理が否定されてしまうのです。理性は、この世界にある諸々の科学的実在から、世界を存在させる神的存在を想定することはできます。しかし、神の正義や愛が信頼できるものかどうかは示せません。正義や愛に、科学的根拠はないわけですから。

パスカルは、神の正義と愛を信頼することは、「賭け」であると言います。もし正義と愛の神が存在しないのなら、信頼してもしなくても世界と自分に何の危害もありません。どちらにしたって、世界と自分に不正と憎しみが蔓延するだけです。でも、正義と愛の神が存在するなら、信頼する者には神の愛と天国が与えられ、信頼しない者には罰と地獄が与えられます。だから、信頼することは、信頼しないことより、確率的に優越することになります。パスカルはそう言って、キリスト教信仰を、合理主義時代の無神論の批判から、擁護しようとしました。
 人も神も、信頼するとは賭けること、なんですね。

2016年1月11日月曜日

哲人の記 8  デカルト


この世界の様々な事がらについて僕たちになされている一般的な説明は、本当に正しいのでしょうか。世間的通説は往々にして覆されますし、歴史上の事件から健康科学まで、学術的な定説とされていたものが覆されることも少なくありません。何が真実?何が真理?分からない時は、疑えそうなことは全て疑ってみるという方法があります。方法的懐疑です。

「我思う、故に我あり」とは、あらゆる知識や感覚から、世界と自己の存在、そして神にいたるまで、疑うことのできる全ての事物を疑った16世紀の哲学者デカルトの言葉です。全てを疑ってみた彼は、最後に、疑っていること自体は疑いえない事実であると考えます。なぜなら、疑うことがなければ、逆にどんなインチキくさいことでも全ては疑いえない真実になってしまうからです。疑う、即ち考えるという精神活動自体は疑いえない以上、それを行っている「私」は間違いなく存在するということになります。この明晰判明な事実が、彼の哲学の第一原理となりました。

  ヨーロッパ文明は、ギリシャ哲学とキリスト教を軸にして生まれてきました。ギリシャ哲学の代表プラトンの思想は、4世紀のキリスト教思想家アウグスティヌスによって、ローマ帝国内に広がったキリスト教信仰に取り入れられ、その神学の土台とされたのです。イデアという設計図を基に世界を創造した造物主たる神の摂理と一致するのは、イデアを認識して真理か否かの判断を下せる人間理性だけある、というプラトンのイデア論は、唯一神信仰たるキリスト教の神学に適していたため、この世界観が中世ヨーッロッパ世界の社会と文化を形成することになります。

ヨーロッパにはやがて、ギリシャ・ローマの文明を直接継承・発展させたイスラム教世界の諸学ももたらされ、プラトンの弟子アリストテレスの哲学も伝わり、カトリック教会の秩序の下で、観念論的なプラトン主義と経験論的なアリストテレス主義を統合しようとしたトマス・アクィナスなどの働きによって、スコラ学という体系的学問が形成されました。しかし、このスコラ学には、聖書の記述に反する学説は決して認めることができないという宿命がありました。デカルトと同時代に、スコラ学の説く天動説に反し、コペルニクスの地動説を支持したジョルダーノ・ブルーノは異端審問で火刑となり、ガリレオ・ガリレイは終身刑となりました。

ガリレイ同様、最も純粋な論理的思考である数学によって記述された事象のみが明晰判明な事実、科学的事実だと考えたデカルトは、聖書に矛盾しない体系に固執するスコラ学と決別し、新たな哲学体系の構築を目指します。そのために、方法的懐疑に続けて行ったのが神の存在証明でした。彼は、明晰判明な「考える私」の存在を見出した理性がある以上、それを成り立たせ、それと合致する摂理の源たる神も存在するとし、己の哲学の根本にも神を置くことで、聖書を解釈できる唯一の権威として君臨するカトリック教会とスコラ学に対抗しました。

数学による全自然界の記述を夢見て彼が構築した機械論的世界観。この世界観に基づく近代科学革命は、彼の死後、まさに数学によって世界を描写したニュートン力学の登場によって実現されます。