理性とは、どこまで正しいものなのでしょう。理屈は通っていても、おかしな論理というものはあります。白を黒にひっくり返す弁護士の詭弁は、大変頼もしいものではありますが、理に適っていても必ずしも正しいとは感じられない時もあるでしょう。でも、論理が正しい限り、間違いの指摘もできません。
18世紀のヨーロッパ、ドイツ人のイマヌエル・カントは、理性について考えました。理性はどこまで正しく、何のためにあるのかということについて。
彼はまず、正しい認識とは何かを考えました。そして、事物そのものが人間に認識されるのではなく、人間の認識の形式が事物の有り方を決定しているのだと考えました。知る対象となる事物は、まず視覚や聴覚や臭覚などの感覚としてとらえられますが、とらえられたものは動物の感性が作り出す映像や音や匂いであって、「物自体」ではありません。動物の感性が、事物の有り様、つまり現象を形作っているのです。特に、動物の感性は、空間と時間という形式を持っており、その形式に基づいて事物が感じ取られるのだと、カントは言います。空間や時間は動物が事物を感じる形式であり、事物を感じることで、初めて対象と共に我々の前に生成するのです。
しかし、感じるだけではまだ認識とは言えません。感性に受け取られた対象は悟性によって仕分けられ、統合され、「犬」や「犬が走る」といった、物や事として認識されるのです。この仕分けと統合は、「分量」「性質」「様態」「関係」といったカテゴリーに従って行われるそうです。これらのカテゴリーは生まれた時から人間悟性に備わっている先天的な形式で、カントは、感性と悟性の形式に沿って認識される現象だけを、客観的実在、科学的実在としました。
ですが、人間は、現象の認識と悟性カテゴリーを基にして「推論する力」、理性も持っています。理性の展開する推論は、数学的に確実なものもありますが、感性によって感知できないものを実在するように見せる詭弁やパラドックスを生み出してしまう性質もあります。それらの中には、魂とか、世界とか、造物主とかといった概念も含まれます。これらは感性で感知できない点で、客観的・科学的に実在するとは言えません。ですが、悟性カテゴリーに沿ってより根源的なものを探求していけば、必然的に導き出される哲学的理念でもあります。実在するとは言えないのに、実在しないと否定して捨てることもできません。なぜこんな理念が生まれるのか。ここにカントは、理性と哲学の真の目的を見い出します。
理性と哲学が実証不能な根源的概念を求めてしまう理由。それは、根源的に不可測な自分の生の中で、いかに行動するべきか、いかに生きるべきかという、行動指標を求めるからです。理性は、進むべき理想を作って人間に示し、導いてくれる灯火です。
それに従うか否かは、意志の問題。