2015年5月27日水曜日

哲人の記 6  荘周

 部屋に音が響きます。でも、誰もいなければ、そこにあるのは空気の振動だけです。空気振動を音に変換する聴覚を持つ生き物がいなければ、音はその空間に存在しません。壁に物の姿が映ります。でも、誰もいなければ、そこにあるのは光の波動だけです。光を色・映像に変換する視覚を持つ生き物がいなければ、映像はその空間に存在しません。音や色に限らず、匂いも味も質感も、生き物の五感がなければ世界に存在できません。

 あなたが1匹のハエだとします。あなたの前に机と椅子があります。でも、あなたは机や椅子という言葉を知らず、その概念を知りません。だから、目の前に現れたあなたの飛行を遮るそいつを、机と椅子という二つの家具として発見することはできません。そこに机と椅子を発見できるのは、その概念を持った人間だけです。言葉が、机と椅子を独立したモノとして、他のものから切り分けてくれなければ、それぞれは独立した物体として存在しせん。

 人間の前にある現実は、五感や言語によって作り出された現象の世界です。とは言え、五感や言語を越えた真の実在が現象の奥に無ければ、現象も生まれようがないはずです。
 
 2千5百年前、乱世の中国で孔子こと孔丘が、礼と仁を貴ぶ思想を軸に弟子たちに学問を教える学団を作った後、中国各地には様々な学団が起こり、様々な思想・哲学が生まれます。礼と仁の孔子の教えを継ぐ儒家、無差別の愛と非戦非攻を説いた墨家、法治主義を説いた法家、論理学による思想の整理に努めた名家など、互いに批判対立しあいながら、活発な活動を見せていました。その中で、貧窮の生活を送りながら、それを苦とする人為的に構築された世界観を脱け出て、現象の世界を成立させている真の実在「道(タオ」との一体化を理想としたのが、荘子こと荘周です。

 荘周は神話的思想家である老子とともに道家と呼ばれます。その著作「荘子」は、何千里もの体長を持つ魚や鳥を登場させるなど大げさな寓話を用いて、読者にまず人間社会の卑小さを感じさせます。それは、地球や宇宙の数万年数億年規模の歴史を学ぶことで、人類の歴史と存在を「小っちゃ!」と感じさせるのと同じ効果を持ちます。それにより、貧富の差や身分の差、能力の差、美醜の差など人間社会で認められている価値規範は、愚かしいほどに微小な差異に基づいたものであることが意識され、絶対的だった価値観が相対化され、その価値体系が解体されてしまいます。そこから、富と貧、正と邪、美と醜、善と悪、真と偽などの二項対立は、一方があることで他方が存在できるもので、世界を有らしめる「道」においては万物は斉同なんだと、荘周は説きました。

 知覚や理性の作る現象界の虚構を指摘し、そこからの解脱、「道」との一体化、無為自然を説く思想は、後に道教へと吸収され、孔子を祖とする儒教とともに、中国文化の基盤となります。

山田太郎

2015年5月24日日曜日

哲人の記 5  孔丘仲尼

  人間は社会的動物です。お互いに関係を持ち、共存していくために、秩序のネットワークを集団的に構築します。子供たちは、自分の生まれ育つ人間集団のルールに取り込まれて、ネットワークを構成する端末の一つになることで、初めて、ただの生物ではない人間になれます。

    人間社会のネットワークを構築しているルールには、大きく分けて二つのものがあります。一つは言語で、もう一つは礼儀です。外国人が、滞在する異国の地で最も困り、最も気にするのもこの二つでしょう。でも、勝ち組になること、負け組にならないことが目指される実力主義の時代には、古い礼儀はなにかと疎んじられるもののようです。

    今から2千5百年前の中国は、周王朝の権威が落ちて、諸侯が覇を競い合う戦乱の時代であり、諸侯もまた配下の貴族や更に下の者たちに地位を奪われる下剋上の世界でした。そんな実力主義の時代に現れたのが、諸子百家と呼ばれる哲学者・思想家たちで、彼らは競って社会ルールの再編を図りました。孔子こと孔丘仲尼は、その先駆け的存在です。その孔丘が重視したルールは、戦乱と実力主義の風潮の中で軽んじられることも多くなった、祖霊祭祀など周王朝伝統の古き礼法でした。

    彼は、ルールである「礼」の前提として、他者に対する思いやりの心「仁」を不可欠なものとしつつ、その「仁」は「礼」によって初めて目に見える実体を持つことができると考えました。ちょうど、言葉の意味は音声や文字など言葉の形式が与えられることで初めて実体を持つというのと同じような、そんな関係が「仁」と「礼」の間にはあるようです。そして、「仁」と「礼」を合わせた「德」を、学問と実践によって身に着けた「君子」が、理想の人間であると説きました。そして乱世の中で、そんな君子を指導者と仰ぐ国家の実現、「仁」と「礼」による秩序の回復を目指しました。

    その一方で、合理主義に徹し、神や霊など理性的に認識できないものについては語ることを戒めました。神霊は、世界を認識の対象と見なす精神態度の前には現れず、そのため科学的には実在しません。でも、森羅万象を、自分と交流し関係を持つ対象と見る精神態度の前には、実在する相手として立ち現れます。だから孔丘は神霊を、学問的には語るべきでない、ただ敬うのみの存在としました。

    孔丘の、古き良き礼法への回帰や他者を思いやる心の教えは、既成の秩序を打ち破る下剋上と、敵を出し抜く権謀術数が求められる時代の実力主義者たちには受け入れられませんでした。彼の説く、孝・義・信・忠のいずれも、時代によって覆されました。また、論理的な独断を避け、学習と実践経験によって偏りをなくそうとする中庸の態度は、競争社会ですぐに役立つ合理的知識ばかりを求める二千五百年前の人々には、ちょっと難解過ぎたようです。孔丘は弟子たちとともに長い流浪の旅に出て、自分たちを採用してくれる王侯が現れるのを待ちますが、ついにその機会には恵まれませんでした。

    ですが、深い仁徳を身につけた彼は、生前から聖人と敬われ、死んで数百年後には神として祭られてしまいました。孔丘の言行録「論語」と、彼を宗祖として信仰する儒教が、やがて東アジア文明の礎となります。

山田太郎