あなたが1匹のハエだとします。あなたの前に机と椅子があります。でも、あなたは机や椅子という言葉を知らず、その概念を知りません。だから、目の前に現れたあなたの飛行を遮るそいつを、机と椅子という二つの家具として発見することはできません。そこに机と椅子を発見できるのは、その概念を持った人間だけです。言葉が、机と椅子を独立したモノとして、他のものから切り分けてくれなければ、それぞれは独立した物体として存在しせん。
人間の前にある現実は、五感や言語によって作り出された現象の世界です。とは言え、五感や言語を越えた真の実在が現象の奥に無ければ、現象も生まれようがないはずです。
2千5百年前、乱世の中国で孔子こと孔丘が、礼と仁を貴ぶ思想を軸に弟子たちに学問を教える学団を作った後、中国各地には様々な学団が起こり、様々な思想・哲学が生まれます。礼と仁の孔子の教えを継ぐ儒家、無差別の愛と非戦非攻を説いた墨家、法治主義を説いた法家、論理学による思想の整理に努めた名家など、互いに批判対立しあいながら、活発な活動を見せていました。その中で、貧窮の生活を送りながら、それを苦とする人為的に構築された世界観を脱け出て、現象の世界を成立させている真の実在「道(タオ」との一体化を理想としたのが、荘子こと荘周です。
荘周は神話的思想家である老子とともに道家と呼ばれます。その著作「荘子」は、何千里もの体長を持つ魚や鳥を登場させるなど大げさな寓話を用いて、読者にまず人間社会の卑小さを感じさせます。それは、地球や宇宙の数万年数億年規模の歴史を学ぶことで、人類の歴史と存在を「小っちゃ!」と感じさせるのと同じ効果を持ちます。それにより、貧富の差や身分の差、能力の差、美醜の差など人間社会で認められている価値規範は、愚かしいほどに微小な差異に基づいたものであることが意識され、絶対的だった価値観が相対化され、その価値体系が解体されてしまいます。そこから、富と貧、正と邪、美と醜、善と悪、真と偽などの二項対立は、一方があることで他方が存在できるもので、世界を有らしめる「道」においては万物は斉同なんだと、荘周は説きました。
知覚や理性の作る現象界の虚構を指摘し、そこからの解脱、「道」との一体化、無為自然を説く思想は、後に道教へと吸収され、孔子を祖とする儒教とともに、中国文化の基盤となります。
山田太郎