2016年5月23日月曜日

賢者の巻物 ⑨ 「遠野物語」柳田國男



「存在」とは「用具性」をもって「ある」こと。哲学者ハイデガーはそう言明しました。でも、存在にはもう一つの性質、「他者性」があります。

日本語で「存在する」は、「ある」の他に「いる」とも言います。日本では古来全ての存在は、「他者」として「いる」ものでした。存在者から他者性を切り捨てると、用具性が残ります。人間にとって、存在から他者性を切り捨てて用具性を見出すことは、合理的になることです。僕たちは、合理的であろうとして、非生物から他者性を切り捨て、非動物から他者性を切り捨て、非哺乳類から他者性を切り捨て、非人間から他者性を切り捨てます。条件次第では人間からも他者性を切り捨てて、合理性を手に入れます。現代では一般的に、言語を解す心を持った人間だけには他者性を認め、人間以外を他者と見なすことは、擬人化、偶像化と呼び、文学やエンターテイメント以外の場所でそれをやると、非合理として批判されたり、不思議君として扱われたりします。でも、存在は根源的に他者性を持っています。それを捨象するかしないかは、人の勝手でしょう。

日本民俗学の開拓者、柳田国男が著した民俗学誕生のモニュメント的書が「遠野物語」です。農商務省の官吏だった柳田は、日本各地の民話伝承に興味を持っていました。歴史家が資料を元に描く歴史は、戦争や反乱など社会の表に現れる事件の記述に偏り、民衆の生活文化が隠されてしまいがちでした。隠れた民衆の生活史を描くには、人々が継承してきた伝統風俗の観察と、語り継がれた民間伝承の蒐集をするしかありません。そう考えて各地の民話を蒐集していた柳田は、岩手県遠野町の民話蒐集家である佐々木喜善から聞いたその地の怪談・奇談・神話を纏め、「遠野物語」を世に出しました。

「願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と著者が述べたように、山村の民が伝える山神・山男・雪女・天狗・大蛇・白鹿・狐・幽霊・座敷童・河童などとの邂逅の物語は、合理に走る都市民へ、怪異のリアルな実在を知らしめました。

柳田は妖怪や幽霊を、科学によって暴かれるべき迷信とは見なしません。彼にとって怪異の伝承は、人々の信仰の有り様とその変遷の歴史を知るための、「事実」でした。後の著書「妖怪談義」では、他者としての水辺や水源に対する人々の畏敬の念が薄れていく中で、河の童子として現れていた水神が信仰を失い、蛇と猿のハーフのような、頭に皿を載せたカッパという妖怪キャラへ零落していく変遷が分析されています。

突発的な狂気が生む殺人事件を、「狐憑き」という説明で納得する昔の民と、「荒廃した現代の心の闇」として納得する今の民。民俗学は科学を目指しつつも、やがて、非合理の合理を見抜く思想に根拠を与える学問になります。