2015年12月7日月曜日

哲人の記 7  パウロ

 先哲の深遠な思想や哲学を学び、定められた戒律や法に従って日々精進すれば、シャカの説く覚者や、孔子の説く君子や、荘子の説く真人などの、理想的な精神や人格を獲得できるのかもしれません。でも、それは誰にでも到達できるような境地ではありません。では、万人にも開かれた理想的な心の境地があるとしたらどうでしょう。たぶん、それを手にするか否かは、僕たちのお気に召すまま。

古代ユダヤ人は、エジプト王家出身の伝説的預言者モーセの導きで、世界を存在させる存在を神として祭り、殺人の禁止から食事の仕方まで生活の細部にわたる厳格な律法を奉じる宗教を得ました。その宗教は、ユダヤの祖アブラハム以来の民俗信仰を継承しながら、強国アッシリアやバビロニアによる侵略や強制移住という過酷な民族的経験を乗り越える過程で、自民族だけでなく、全人類に平等な主である神への信仰へと発展します。しかし、紀元前1世紀後半、ユダヤ人の国イスラエルは再び大国ローマ帝国の属州としてその支配下に服すことになり、宗教においては、神の祭祀を司るサドカイ派と神の律法を重んじるパリサイ派が対立し、民族の主導権を競い合うようになっていました。

 そうした状況のユダヤ人社会で、パウロは生まれます。彼はパリサイ派に属して律法の知識に長じていた上に、当時の国際言語であったギリシャ語を話すバイリンガルでもあり、ローマ市民権を持つエリートでもありました。パウロは、ギリシャ的教養と知性にも恵まれていましたが、それ以上に、モーセ以来の律法を忠実に守ることこそが、神の創造した世界に生きる人間の励むべき生き方であるという信念を持っていました。

さて、パウロと同時代のイスラエルに、一群の供を連れて各地を巡り歩いていた大工出身の一人の男がおり、人々の耳目を引いていました。彼には祭司の資格がある訳でもなく、膨大な律法知識がある訳でもありませんでした。彼にできることと言えば、病人・貧者・障害者・罪人・売春婦など、社会に捨てられた人々と交わり、彼らを癒すことだけでした。それも、「心から癒しを求めている人」しか癒せませんでした。強い者、富める者、正しき者は癒せませんでした。そして、律法の解説ではなく、譬え話で神とその愛について伝えるだけでした。その男イエスが人々に称えられるようになると、祭司たちと律法学者たちは、その権威と誇りが傷つけられるのを恐れました。イエスは囚われ、神殿と律法を穢した罪で十字架にかけられて死にます。

その死後、彼の弟子たちが神の愛についての説法とその癒しの業を継承し、イエスの言葉と行動は復活します。パウロは当初パリサイ派としてその彼らを迫害する側にいましたが、己が迫害する人々との交わりの中で、厳しい律法に生きる難しさに疑問を持つようになり、癒しを求める者を癒し、心の救いを求める者の心を救うイエスという存在に傾倒し、回心するに至ります。そして、イエスこそが自分たちを神に取次いでその愛に導いてくれるキリスト(救い主)であるという真理を明確にし、新たな信仰の体系を築きました。
 
 ここに、キリスト教が誕生しました。