2016年4月24日日曜日

賢者の巻物 ⑧ 「存在と時間(下)」ハイデガー


  「武士道と云ふは死ぬことと見つけたり。」江戸時代中期に著された武士道倫理の名著「葉隠」の一節です。人間は、他人と交換できない己の「死」へ臨んだ時、他人と交換できない己の「本来性」へ呼び戻されるようです。そして、本来あるべき自己の可能性へ自分自身を投げ入れる選択の自由を獲得します。「死」に臨む「生」を知るとき、「在るべき生」を生きる可能性も開かれる、というわけです。

  幼い頃、死ぬのが怖かったことはないでしょうか。死について教わることもないうちから、子供は自分が存在しなくなる不安を感じることができます。存在する以上、存在しなくなる可能性も、あるわけですから。人間は、その不安から逃れ、死を免れることを志向して、集団的にそのための手段・方法を探し、その志向に適う用具的存在たちを味方にします。そして、死に背を向けた日常的世間へ頽落し、死の不安を忘れようとします。

  ドイツの哲学者ハイデガーが1927年に発表した「存在と時間」は、「存在すること」について探求した書でした。その第一編では、周囲の事物を用具的存在として了解する人間を現存在と呼び、存在を存在させる存在として定義しましたが、第二編では、現存在の存在の意味を時間性として解明していきます。

 現存在は、「関心」を旨として存在していますが、日常的な「関心」は世間話の中へ埋没し、非本来的な状態に投げ出されている世間的自己として生きています。しかし、「死」という他者と交換不能な、全てが不可能になる最後の可能性に臨む時、個の現存在は世間から切り離されて孤独になり、本来的な自己を取り戻します。では、何が現存在を「死」に臨む本来的な自己へと呼び戻すのでしょうか。ハイデガーはそれを「良心」と呼びます。「良心」とは「後ろめたさ」を抱える現存在自身からの呼び声です。「良心」に従い、自己のあるべき可能性へ自己を投げ入れる覚悟を持つとき、現存在は自己の最後の可能性としての「死」へ臨む存在になるというわけです。

 重要なのは、この本来的な可能性としての「死」へ向かう存在の意味が「時間性」であるということです 。死への可能性から「将来」が、後ろめたさから「過往」が了解され、最後に決断し行動する「瞬視」が生まれます。時間とは、こうした存在の意味として生起するものです。通俗的な過去・現在・未来へと流れる時計的時間は、ここから派生した概念に過ぎないと、ハイデガーは言ったわけです。

  良心に従いナチス・ヒトラーに賭けた彼は、希望から失望、絶望、敗北へと墜ちていきました。でも、「存在と時間」は二〇世紀最大の哲学書として今も君臨しています。


2016年4月21日木曜日

賢者の巻物 ⑦ 「存在と時間(上)」ハイデガー

  机の引き出しからなくなったトンカチを探したら、机の上にあった。トンカチが宙に浮かない理由を考えたら、万有引力の法則があることが分かった。教科書で調べたら、ニュートンがこの法則を発見したという事実があった。物がある。法則がある。事実がある。

  何かがあるかどうか、僕たちは探したり考えたり調べたりします。もちろん、物事が「ある」ということがどういうことかなんて分かっている、つもりです。でも、「ある」って何?と聞かれても、簡単には答えられません。「存在」を、定義できないということです。そもそも、質問がおかしいです。「ある」がどういうことかなんて、分かりきったこと、であるはずなのですから。

  第一次世界大戦後のドイツで哲学を講じていたハイデガーは、師のフッサールから「現象学」という、認識と存在に関する哲学を学んでいました。「現象学」は、あらゆる学問上の概念や日常的な概念に基づく判断をいったん保留して、純粋な意識の前に現れる「事象そのもの」を捉え、それを全ての学問の基礎にしようとする哲学として提示されていたのですが、この現象学の 方法を使って、「存在する」とはどういうことかを究明したのが、『存在と時間』です。

  この本は「存在」について探求していますが、それは、「なぜこの世界は存在しているのか」といった存在の起源の探究ではなく、「世界は本当に存在しているのか」といった存在についての証明でもありません。あくまでも、「ある」とはどういうことなのかについての究明を目指しています。そして、その究明により、私達にとって分かりきった「存在する」が、私たちに定義しがたい理由も見えてきます。「ある」が分かりきったことになっているのは、私達が、存在を存在させる存在として存在している存在だからでしょう。

  『存在と時間の第一編では、このように実存を生みだす人間を「現存在」と呼び、現存在が自己や事物を存在させる構造を「配慮・了解・解意」の順で説明しています机上にある物は、釘を打とうとする時、叩くという用具性が了解され、トンカチとして解意されます。机はトンカチが置いてある場所という用具性を持って現れ、それらがある「所」として「空間」が現れます。そして、空間の広がる「世界」というものも現れます。これは、現存在を含め全ての「存在」が「世界-内-存在」であることを開示しています。

  現存在は、世界内の共同現存在たる他の人間に、自分の解意したことを「言明」します。言語による会話は、存在を言明することであるはずだったのですが、世間話として交わされるうちに存在は曖昧になります。現存在は、この世間話の世界に溶け込み、非本来性へ投げ出されて「頽落」した状態を日常としているのです。

  では、非本来性へと頽落した現存在は、どうやって本来性を取り戻すのでしょうか?そして、「ある」ということは、どのように「時間」と関わっているのでしょうか?そもそも「時間」とは、なんなのでしょうか?
  その探求は、第2編へと続いて行きます。