2016年2月7日日曜日

哲人の記 12  ニーチェ


   もしも、今生きているこの人生が、来世でも寸分違わず同じように繰り返されるとしたら。苦しみ多きこの人生が、何度も何度も永遠に繰り返されるとしたら。あなたは今の人生をもう一度生きてみたいと思いますか?
   
   19世紀後半のヨーロッパ、技術革新と産業革命によって近代合理主義は大衆化し、キリスト教の世界観は科学的な常識に圧倒されてしまいます。かつて科学者ガリレイの地動説を否定したローマ教会の説く宇宙観には、もう権威がなく、人格を持った神は、妖精や魔女などと同様、非科学的な存在と見なされるようになってしまいます。

   「神は死んだ。」ドイツの哲学者ニーチェは、この言葉によってこうした時代状況を端的に指摘しました。しかしこの言葉は、単に宗教と教会の権威が落ち、人々が迷信に囚われずに理性によって合理的に生きる時代が到来したことを告げるものではありませんでした。「神の死」とは、普遍的・絶対的な真理や理想が消え失せ、今後数世紀に亘って根源的に無秩序な価値相対主義の時代が来ることを予言する言葉でした。

   ニヒリズムとは、普遍的・絶対的な価値基準の存在を一切認められない精神的態度を指してニーチェが名付けた言葉です。神の死は、キリスト教の教えてきた愛や道徳の根拠が消えたことを意味します。そして、何も確実なものがなく、何も信じられない状況で、理想も目標も持てぬまま、ただ惰性的にその日その日を安楽に生きようとするだけの人間が、ゆっくりと確実にヨーロッパの地に増殖していく。近代ヨーロッパが陥りつつあるそうした世相に、ニーチェは警鐘を鳴らしたのでした。

   彼は、その状況を生み出した元凶は、ソクラテス以来の真理を求める哲学と、絶対的真理を大衆化したキリスト教であると考えました。そもそも真理などというものは存在せず、それまで信じられていたものはヨーロッパという地球上の一地域の文化が形成した、世界についての視点の一つに過ぎないのに、絶対不変のものだと哲学やキリスト教が信じさせてきたため、それが覆された途端、虚無感に襲われる人々が現れるようになったのだ。そう考えたニーチェは、反哲学・反キリスト教を自己の思想的態度とし、ニヒリズムを克服する方法を人々に伝えようとしました。

   ニヒリズムの徹底、それがニーチェのニヒリズム克服の方法でした。つまり、一般の道徳的善悪などは文化や状況によってすり替えられるものだと断じて顧みず、ただ自己にとって悪いものは捨て、ただ自己にとって良い道を選んで進むことで、人生を輝かせることができるのだということです。そうして、再び生まれて来ても全く同じ人生を送りたいと望めるように生きられる人間を、彼は「超人」と呼びました。

   この世界が永遠に回帰し、今の人生が永遠に繰り返されるとしたら、あなたは今をどう生きますか。

哲人の記 11  ヘーゲル

   
 一人の子どもが生まれます。するとその意識に、無数の色や音や臭いや触感が現れます。そこに何かが、「物」が、確かにあると彼は思います。しかし、目の前の「物」は、彼が後ろを向けば姿を消してしまうのです。一方で、意識は継続して彼の中にとどまっています。確かにあるのは私の意識だと、彼は思います。確かにあるのは「物」か意識か、対立が生じます。ですがこの対立は、目の前の「物」が継続する意識の中に継続して現れ、「それがある」という確かな「事」になることで統一されます。この統一が知覚とよばれるものです。
 
 やがて彼は社会の中で、言葉と概念を身につけます。そして、目の前にある何かが、例えば「机」であることを知ります。その「机」は、「固い」「重い」「茶色い」などという様に、概念的に意識にとどまります。そして、この「机」はそれらの性質を本質として持っていることになるのです。更に、その「机」は、知覚する主体である個人の意識にのみ現れたのではなく、彼が言葉と概念を通してつながっている人類の精神ネットワーク上に現れ出たものでもあります。こうしてこの「机」は、人類の精神世界で客観的普遍的に存在することになります。この意識の働きが、悟性です。
 
 彼の意識は、様々なものの認識の後、終には自分自身を対象として意識するようになります。この自己意識(自我)は、自己内部の欲望を実現しようとしています。が、自然はそれを簡単には許さず、対立が生じます。また、彼と同じく他の人間も、彼と同様に欲望を持っており、双方の自己意識は互いの欲望実現のために対立します。さて、欲望の勝利には限界があります。自己意識は自然や社会の壁にぶち当たることで、その法則を内部に受け入れ、これに従う理性となります。
 
 こうして理性は、人間精神のネットワーク 上にある制度や道徳に従うことになったわけですが、これは一方で自己意識の欲望としばしば対立し、道徳と幸福が矛盾し合うことになります。また、ある制度や道徳は別の制度や道徳と対立することもあります。ここに理性は絶対命令としての道徳を越え、理想を行動によって現実化し、同時に他者の承認も得ようとする「良心」へと発展するのです。
 
 18世紀末、西洋で発展した合理主義はフランス革命へ結実しながら、恐怖政治やナポレオンの独裁へと挫折しました。そんな激動の時代に登場したヘーゲルは、「正」と「反」の対立が「合」として発展を生むという、弁証法的な精神発展の歴史を解明し、人類の精神ネットワークであり世界が実在する場である「絶対精神」に、個人の意識を一体化させることを理想とする哲学を説きました。
 
 彼をもって古代ギリシャ以来の西洋哲学は体系的な完成を迎えることになるのでした。