2016年3月26日土曜日

賢者の巻物 ⑥ 「一般言語学講義」F・ソシュール

   初めに言葉ありき。人は言葉を交わしあうことで、社会を営みます。人間にとっての現実とは、社会的現実だし、社会的現実とは、言語という記号の織りなす現実です。

   日本では「蝶」と「蛾」を区別していますが、フランスでは両者はともに「パピヨン」と呼ばれます。生物学的にも同じ鱗翅目で、明確な分類はありません。それでも、日本で蝶と蛾は違う虫です。ブリの煮物とハマチの刺身、料理しか見たことのない人にとってはそれぞれ別の魚ですが、知る人にとっては成長段階の異なる同じ魚です。別の名前がついていれば、言語記号の作る現実において、科学的には同じ物でも別の実在になります。僕たちの世界は、知っている言葉の数だけ広く、言葉たちの関係の分だけ複雑になります。

   19世紀のスイスに、裕福な名門貴族にして、幾多の著名な学者を輩出した家に生まれたフェルディナント・ソシュールは、早熟の天才と呼ばれ、ヨーロッパ学問の本場であるドイツとフランスにおいて、十代の頃から比較言語学者としての名声を得ていました。しかし、彼は同時代の言語学に疑問を感じてもいました。当時の言語学と言えば、各言語の起源や、各言語がいかにして分岐したかや、いかに「進化」してきたかなど、言語の歴史的変遷の様態を探求する通時言語学が中心です。でも、ソシュールは、現在進行中の言語現象の厳密な科学的構造を探求することこそが、自分の取り組むべきテーマだと考え、それを共時言語学、一般言語学と呼びます。

 そんな彼の言語についての理論を紹介したのが『一般言語学講義』です。しかしこの本、著者は彼ではありません。彼の死後、弟子のバイイとセシュエが、スイスの大学で三度に渡って行われた一般言語学に関するソシュールの講義を、学生たちのノートを編集して再現したのがこの書でした。

 ソシュールは言語を、実際に話され聞かれ書かれ読まれる言語使用「パロール」と、そうした使用を可能とする言語システム「ラング」に分類し、前者は言語変遷の原因であるため通時言語学の対象とし、後者を科学的探究たる共時言語学の対象としました。彼はその「ラング」を、「恣意的な体系」と捉えます。各単語は、その音声形式「シニフィアン」と概念「シニフィエ」が一体となったものだと言えるのですが、両者の繋がりには合理的必然性が見出せないからです。実際、「机」をisu、「椅子」をtsukueと呼んでも本質的には問題はありません。更に、一般言語学では各単語の意味・価値は、他の単語との差異のみだといいます。「机」と「椅子」の意味・価値は他の家具との差異であり、チェスのコマたちのように、全ての言葉は、相対的な差異の体系の中でのみ意味と価値を持つということです。

   ソシュールは存命中、自説を不充分・不完全なものと考えていましたが、彼の言及から導き出された「言語記号の恣意性」は、20世紀後半の哲学・思想を席巻したフランス現代思想の源流となり、神話的な影響力を遺したのでした。

賢者の巻物 ⑤ 「妖怪学」井上円了

お化け」を見たことはありますか。日本の風土は夏に蒸し暑く寝苦しいこともあり、昔からお化けは夏によく出るとされていましたが、現代では、貞子さんもトイレの花子さんも、あまり季節は気にしないようです。

   お化けにもいろいろありますが、日本では大きく妖怪と幽霊に分けられます。妖怪とは様々な場所で起こる不可思議な現象に与えられた名前であり、幽霊は恨みを抱いた死者の怨念のことのようです。どちらも科学的、物理的には実在しないわけですが、にもかかわらず、お化けは実在してしまいます。

   本物のジバニャンやゲゲゲの鬼太郎と握手はできませんが、不可思議現象は前近代に限らず今でも起こります。死んだ人間が物理的に活動するはずはないですが、「恨みを抱いて死んだ人間」はたくさんいるでしょう。「人を呪わば穴二つ」と言います。切腹、特攻、自死による他者攻撃という呪術にすがる衝動は、日本語の精神にはしばしば宿ってしまうようです。怪異や怨念は、人間にとっての現実である意識の世界で、やはり実在してしまうのです。

   東洋大学の創設者、井上円了は、明治を代表する哲学者であり教育者です。しかし、彼の名前は哲学よりも、妖怪研究のパイオニアとして知られています。

   哲学による日本の近代化を目指した円了は、無知蒙昧な迷信から人々を解放するため、古今の妖怪に関する文献を渉猟し、全国各地の怪異譚を取材して、様々な不可思議現象について、物理学・医学・心理学上の知見から合理的に真相を究明していきました。妖怪についての膨大な知識と、探偵さながら怪異を暴くその様より、「不思議博士」「妖怪博士」と呼ばれます。

   『妖怪学』は、彼が妖怪と呼ぶ様々な怪異現象の紹介と、それに対する科学的解釈、迷信批判を展開した論文です。例えば、「こっくりさん」という現象が起こる物理的・生理的・心理的原因を解明します。そして、その起源が決して古いものではなく、明治期に、アメリカ人が伝えたテーブル・ターニングという占いであることが暴かれてしまうのです。

   妖怪を、科学的に未解明な現象である真怪」、自然現象によって実際に発生する仮怪」、誤認や恐怖感などの心理的要因が生む誤怪」、人が人為的に引き起こす偽怪」に分類し、俗信の打破を目指した円了でしたが、妖怪を否認したわけではありません。妖怪とは「心これなり」とし、宗教信仰を奨励して霊魂の不滅を説いてもいます。

   自分が害した死者の悪夢にうなされる者へ、「幽霊なんて非科学的ですよ」と言ったところで意味はありません。そんなことは分かっているんですから。科学的に実在しない実在は、科学の力では消せません。だから怖い。だから人は、鎮魂の儀式を必要とします。死者の魂を鎮めることで、生者の心を鎮めるために。

   妖怪はその後も、柳田國男など民俗学者たちによって、体系的に研究されていくことになります。

賢者の巻物 ④ 「プロテスタンティズムの倫理と、 資本主義の精神」マックス・ウェーバー


    欲望は景気を活性化します。資本主義経済は、労働者を搾取する資本家の貪欲な利潤追求と、消費者のこれまた貪欲な消費欲を、システムとして不可欠としています。だから、積極的に欲望が鼓舞され、欲望こそが資本主義の精神的原動力だ、と普通は思われています。

   しかし、グローバル化した現代の国際経済を形成した近代資本主義は、営利追求を徹底的に敵視する、キリスト教プロテスタントの原理主義的な禁欲倫理によって、生まれてきたものでした。

   20世紀初頭、ドイツの社会学者M・ウェーバーは、彼と同じく社会学黎明期にあってこの学問の発展に寄与した先哲マルクスが、その著「資本論」で示した史的唯物論の反証とも言える理論を発表しました。

   ヨーロッパでは16世紀に、長きに渡って人々の精神世界を支配してきたカトリック教会の腐敗、ルター敢然と糾弾、宗教改革が始まります。新教プロテスタントの誕生です。しかしそれは、カトリック教会の支配下では詳しいキリスト教の教義を教えられず、形式的な信仰しか持てなかった一般信徒にも、修道僧のような厳格な信仰生活を求める、より原理主義的な運動でした。信徒に求められたのは、「祈り、働け」、そして「営利を求めるな」という生活です。この生活態度がより厳格に求められたのが、スイスのプロテスタント指導者カルヴァンに教化されたカルヴァン派の信徒です。誰が神に救済されるかは既に決定しているという「予定説」を採るカルヴァン派では、自分が救済されることを、神の意に沿う生活をしているか否かで確信しようとします。神に定められた者は、己の天職に没頭しているはず、ということです。ここに、労働を宗教的行為とする文化が形成されます。しかも、営利追求は禁じられていたため、利益がひたすら蓄積されたのでした。

   産業革命は蒸気機関などの技術革新が発生条件として不可欠でしたが、その技術を使用するには蓄積された多額の資本と、自己犠牲的ともいえる職業倫理を持った労働者が不可欠でした。こうして、プロテスタントの職業倫理から、資本の拡大に義務感を持つ資本主義の精神が生まれたのです。しかし、その精神が外部的社会機構として定着すると、内面的な宗教倫理とは無縁の、商業主義・拝金主義がシステム化された近代資本主義に転換していきます。

   唯物論者のマルクスは、人間社会では、物質的・経済的条件である下部構造が、政治・宗教・文化といった精神的条件である上部構造を形成すると主張しました。しかし、ウェーバーはそれとは全く逆に、宗教や文化が物質的・経済的現象を現出することが、人間社会の歴史にはあることを証明したのでした。

賢者の巻物 ③ 「経済学・哲学草稿」K・マルクス

   僕たちは、グローバル化した資本主義社会を生きています。それは、自らの意志と努力によって夢を実現できる社会、ということになっています。様々な事業、最近ではIT関連で億万長者になった企業家や投資家たちの存在が、確かにそれを実証してはいます。しかし、その一方には、就職難・リストラ・非正規採用などの理由で、安定した所得を得られな人たちもいます。また、モノカルチャー経済の下で、先進国市民の贅沢心を満たすために、低賃金で働く途上国の労働者たちもいます。彼らは、自分の働く農場のカカオで作られたチョコレートケーキを、一生口にすることがありません。

   産業発展の著しい19世紀のドイツ。そこでは、自由を実現する精神の運動として世界史を説くヘーゲルの観念論哲学が、近代哲学の完成体として勢威を奮っていた地でもありました。ユダヤ系ドイツ人のマルクスも、そのヘーゲル哲学を学んでいた一人の哲学青年だでした。自由主義者で多少浪費癖のあったこの青年は、大学教授職を目指していましたが、それに失敗、ジャーナリストになることでその運命を大きく変えることになります。自由主義の立場から封建的保守体制を批判していく過程で、資本主義社会における労働者の悲惨な窮状を見て、資本主義がその正当性の根拠にしたアダム・スミス等の国民経済学について研究しました。そして、社会主義者、共産主義者に生まれ変わります。「経済学・哲学草稿」は、26歳のマルクスが、経済学により理論的支持を得ている資本主義が生み出す社会矛盾を指摘しつつ、自らの思想基盤であったヘーゲルの観念論と西洋哲学を攻撃する論文であり、後の大著「資本論」のルーツとなる草稿です。

   資本主義下の労働者は、資本家の富が増せば増すほど窮乏し、自分が生産した製品を自分の物とすることのできぬ労働に、疎外感を抱かざるを得ない存在となります。格差は広がり、対立は深まり、人間性は失われていきます。経済学は、公平な競争が国家の富を増やすとして資本家の活動を擁護しますが、現実には格差は拡大する一方です。哲学は、観念の整合的な体系化を目指して、ヘーゲルはそれに成功したともいえますが、現前する生の社会問題に対しては力を持ちません。マルクスは、ヘーゲルの観念論を批判したフォイエルバッハの唯物論を更に進め、類的存在としての人間、生の社会的存在としての人間に全ての根拠を置きました。そして、人間が社会的存在としての自己を取り戻すため、科学的に社会と経済を分析し、資本主義を打倒する革命の意義を説いたです。

   歴史上、マルクス思想による革命は、結果的には失敗しています。でも、資本主義の矛盾は消えず、社会的存在であろうとする社会主義の実践的活動は、今なお続いています。

賢者の巻物 ② 「論理哲学論考」L・ヴィットゲンシュタイン

   哲学には、一つの最終解答が示されています。「語り得ぬことについては、沈黙しなければならない」という解答が。

   様々な事実が言語に写し取られていることで、人間は言葉を使って語ったり(他人に説明したり)、考えたり(自分に説明したり)することができます。そして、説明が成立するには、言語が論理規則という条件を持っていることが不可欠です。例えば、事物をXとYの座標に写し取れば、その場所や形を座標の規則に従って説明できます。同様に、「AはBだ」とか「AはBではない」とか「AならBになる」などの論理規則があることで、複雑な説明も可能になります。言語が論理規則を持っている以上、言語に写し取られた事実も論理規則を持っているということになりそうです。なぜなら、事実の集合である世界は、言語化した事実である命題の集合でもあるため、言語と同様に論理形式・因果関係が観察できるからです。そして、論理の空間が言語でできている以上、言語の限界は世界の限界とも言えます。

   オーストリアの青年ヴィットゲンシュタインは、第一次世界大戦のさなか、志願兵として赴いた戦場の銃弾飛び交う死線上で、論理について考えていました。その当時、ドイツの数学者フレーゲの考案した形式論理学が、イギリスの数学者ラッセルよる修正を経ながら、論理学に革命を引き起こしていました。二人に影響を受けたヴィットゲンシュタインが、戦場で論理についての考察に没頭して完成させたのが、20世紀を代表する哲学書「論理哲学論考」です。

   論理空間内の事実は、真偽の判定が可能な命題に限られ、真偽判定不能な命題は存在が無意味とされます。よって、真偽判定の可能な科学的命題以外の、善や美や神や魂など、実証不可能な命題は全て無意味、沈黙すべき対象となるのです。哲学とは、語り得るものと語り得ぬものを仕分ける活動で、真理を語ることではないのだと、この書は主張し、後の英米系の分析哲学に大きな影響を残します。

   「論理哲学論考」は、論理とは何かを論じてその発展に寄与した、難解な論理学の書ですが、その独特な構成には、どんでん返しがあります。論理についての記述だったはずの文章は、語り進むうちに、論理の外側に秘められた語り得ぬ神と倫理と生の意味を読者に示す、神秘の思想書にもなっているのです。ヴィットゲンシュタインは、この書をもって哲学の終了を宣言しました。しかし、もう一つのどんでん返しがありました。彼は15年後に哲学に復帰、「言語ゲーム」という、自らの論理中心主義を批判する概念を立て、フランスを中心とした後の大陸現代思想にも影響を残すのでした。

賢者の巻物 ① 「善の研究」西田幾多郎

   欲望のままに生きる人間が、道徳的な理想に向かう人間へ、「お前のしていることも自分の願望をかなえるための行動だ。つまり俺と同じく欲望で動いている訳さ。行動ってのは、みんな欲から生まれてるんだ」と言います。人間と動物の全ての行動原理を、「欲望」として理解し説明する、欲望一元論。

   これは確かに分かりやすいですね。でも、行動についての理解と説明の怠慢のような気がします。人間も動物も、残念ながらそれほど単純にはできていないみたいです。現実には、快楽への欲望は、行動の起因の一つでしかありません。動物は、個体としての身体的欲求や危機回避よりも、種や群れの生存のために自らの命を落とそうという、自己犠牲的衝動に突き動かされることが、少なからずあるようですから。社会的動物たる人間は、身体的欲求と、社会的に存在しようとする道徳的意志との間で、しばしば葛藤します。そして、そこに意識が生まれます。つまり、身体的欲求が何の障害もなく通っている間、人間は無意識なのですが、個体の欲求が自然や社会と衝突する時、或いは自らの社会規範など種々の衝動と矛盾し合う時、神経には負荷が発生するので、その矛盾を解消・克服・統一しようとする作用が働き、「純粋経験」という意識、無意識に戻ろうとする無意識でない状態が生まれるのです。

   近代日本の哲学者、西田幾多郎は、その著書「善の研究」において、「純粋経験」をこの世界の唯一の実在としました。そして、科学も芸術も、道徳も宗教も、人間活動の全てを、精神の矛盾・葛藤状態である意識の統一運動として説明したのでした。

   「善の研究」では、感覚も思惟も、意識の働きは全て純粋経験と呼ばれます。これは、意識することであると同時に意識されることでもあります。意識する主体と、意識される客体とは、一つの純粋経験を別の面から示した抽象的概念にすぎず、意識する自己は意識される世界であり、世界は自己であるということになります。また、純粋経験は矛盾・葛藤を克服し統一する作用でもあるから、社会的動物として存在する、言語と文化を持つ人間の精神においては、純粋経験は他者を愛し尊重する衝動や、理想社会の実現を目指す衝動に則る統一作用としても現れます。西田は、純粋経験のこの倫理的作用・運動が「善」であると言います。そして、個人の意識を言語・文化の体系である人類精神の一細胞とする一方、その人類精神を突き動かす宇宙の根源的意志としての神でもあるとしました。神は意識する主体であり、世界は意識される客体であり、両者は一つの純粋経験であるということです

   ソクラテスからヘーゲルに至る古今の西洋哲学、キリスト教神学、儒教思想、そして仏教哲学の研究に加え、参禅修行の実践に基づいて構築された西田哲学。その哲学体系に個人名を冠せられた者は、近代日本では西田幾多郎一人です。