2016年3月26日土曜日

賢者の巻物 ① 「善の研究」西田幾多郎

   欲望のままに生きる人間が、道徳的な理想に向かう人間へ、「お前のしていることも自分の願望をかなえるための行動だ。つまり俺と同じく欲望で動いている訳さ。行動ってのは、みんな欲から生まれてるんだ」と言います。人間と動物の全ての行動原理を、「欲望」として理解し説明する、欲望一元論。

   これは確かに分かりやすいですね。でも、行動についての理解と説明の怠慢のような気がします。人間も動物も、残念ながらそれほど単純にはできていないみたいです。現実には、快楽への欲望は、行動の起因の一つでしかありません。動物は、個体としての身体的欲求や危機回避よりも、種や群れの生存のために自らの命を落とそうという、自己犠牲的衝動に突き動かされることが、少なからずあるようですから。社会的動物たる人間は、身体的欲求と、社会的に存在しようとする道徳的意志との間で、しばしば葛藤します。そして、そこに意識が生まれます。つまり、身体的欲求が何の障害もなく通っている間、人間は無意識なのですが、個体の欲求が自然や社会と衝突する時、或いは自らの社会規範など種々の衝動と矛盾し合う時、神経には負荷が発生するので、その矛盾を解消・克服・統一しようとする作用が働き、「純粋経験」という意識、無意識に戻ろうとする無意識でない状態が生まれるのです。

   近代日本の哲学者、西田幾多郎は、その著書「善の研究」において、「純粋経験」をこの世界の唯一の実在としました。そして、科学も芸術も、道徳も宗教も、人間活動の全てを、精神の矛盾・葛藤状態である意識の統一運動として説明したのでした。

   「善の研究」では、感覚も思惟も、意識の働きは全て純粋経験と呼ばれます。これは、意識することであると同時に意識されることでもあります。意識する主体と、意識される客体とは、一つの純粋経験を別の面から示した抽象的概念にすぎず、意識する自己は意識される世界であり、世界は自己であるということになります。また、純粋経験は矛盾・葛藤を克服し統一する作用でもあるから、社会的動物として存在する、言語と文化を持つ人間の精神においては、純粋経験は他者を愛し尊重する衝動や、理想社会の実現を目指す衝動に則る統一作用としても現れます。西田は、純粋経験のこの倫理的作用・運動が「善」であると言います。そして、個人の意識を言語・文化の体系である人類精神の一細胞とする一方、その人類精神を突き動かす宇宙の根源的意志としての神でもあるとしました。神は意識する主体であり、世界は意識される客体であり、両者は一つの純粋経験であるということです

   ソクラテスからヘーゲルに至る古今の西洋哲学、キリスト教神学、儒教思想、そして仏教哲学の研究に加え、参禅修行の実践に基づいて構築された西田哲学。その哲学体系に個人名を冠せられた者は、近代日本では西田幾多郎一人です。

0 件のコメント:

コメントを投稿