2016年2月7日日曜日

哲人の記 11  ヘーゲル

   
 一人の子どもが生まれます。するとその意識に、無数の色や音や臭いや触感が現れます。そこに何かが、「物」が、確かにあると彼は思います。しかし、目の前の「物」は、彼が後ろを向けば姿を消してしまうのです。一方で、意識は継続して彼の中にとどまっています。確かにあるのは私の意識だと、彼は思います。確かにあるのは「物」か意識か、対立が生じます。ですがこの対立は、目の前の「物」が継続する意識の中に継続して現れ、「それがある」という確かな「事」になることで統一されます。この統一が知覚とよばれるものです。
 
 やがて彼は社会の中で、言葉と概念を身につけます。そして、目の前にある何かが、例えば「机」であることを知ります。その「机」は、「固い」「重い」「茶色い」などという様に、概念的に意識にとどまります。そして、この「机」はそれらの性質を本質として持っていることになるのです。更に、その「机」は、知覚する主体である個人の意識にのみ現れたのではなく、彼が言葉と概念を通してつながっている人類の精神ネットワーク上に現れ出たものでもあります。こうしてこの「机」は、人類の精神世界で客観的普遍的に存在することになります。この意識の働きが、悟性です。
 
 彼の意識は、様々なものの認識の後、終には自分自身を対象として意識するようになります。この自己意識(自我)は、自己内部の欲望を実現しようとしています。が、自然はそれを簡単には許さず、対立が生じます。また、彼と同じく他の人間も、彼と同様に欲望を持っており、双方の自己意識は互いの欲望実現のために対立します。さて、欲望の勝利には限界があります。自己意識は自然や社会の壁にぶち当たることで、その法則を内部に受け入れ、これに従う理性となります。
 
 こうして理性は、人間精神のネットワーク 上にある制度や道徳に従うことになったわけですが、これは一方で自己意識の欲望としばしば対立し、道徳と幸福が矛盾し合うことになります。また、ある制度や道徳は別の制度や道徳と対立することもあります。ここに理性は絶対命令としての道徳を越え、理想を行動によって現実化し、同時に他者の承認も得ようとする「良心」へと発展するのです。
 
 18世紀末、西洋で発展した合理主義はフランス革命へ結実しながら、恐怖政治やナポレオンの独裁へと挫折しました。そんな激動の時代に登場したヘーゲルは、「正」と「反」の対立が「合」として発展を生むという、弁証法的な精神発展の歴史を解明し、人類の精神ネットワークであり世界が実在する場である「絶対精神」に、個人の意識を一体化させることを理想とする哲学を説きました。
 
 彼をもって古代ギリシャ以来の西洋哲学は体系的な完成を迎えることになるのでした。

2016年1月28日木曜日

哲人の記 10  カント


理性とは、どこまで正しいものなのでしょう。理屈は通っていても、おかしな論理というものはあります。白を黒にひっくり返す弁護士の詭弁は、大変頼もしいものではありますが、理に適っていても必ずしも正しいとは感じられない時もあるでしょう。でも、論理が正しい限り、間違いの指摘もできません。

18世紀のヨーロッパ、ドイツ人のイマヌエル・カントは、理性について考えました。理性はどこまで正しく、何のためにあるのかということについて。

彼はまず、正しい認識とは何かを考えました。そして、事物そのものが人間に認識されるのではなく、人間の認識の形式が事物の有り方を決定しているのだと考えました。知る対象となる事物は、まず視覚や聴覚や臭覚などの感覚としてとらえられますが、とらえられたものは動物の感性が作り出す映像や音や匂いであって、「物自体」ではありません。動物の感性が、事物の有り様、つまり現象を形作っているのです。特に、動物の感性は、空間と時間という形式を持っており、その形式に基づいて事物が感じ取られるのだと、カントは言います。空間や時間は動物が事物を感じる形式であり、事物を感じることで、初めて対象と共に我々の前に生成するのです。

しかし、感じるだけではまだ認識とは言えません。感性に受け取られた対象は悟性によって仕分けられ、統合され、「犬」や「犬が走る」といった、物や事として認識されるのです。この仕分けと統合は、「分量」「性質」「様態」「関係」といったカテゴリーに従って行われるそうです。これらのカテゴリーは生まれた時から人間悟性に備わっている先天的な形式で、カントは、感性と悟性の形式に沿って認識される現象だけを、客観的実在、科学的実在としました。

ですが、人間は、現象の認識と悟性カテゴリーを基にして「推論する力」、理性も持っています。理性の展開する推論は、数学的に確実なものもありますが、感性によって感知できないものを実在するように見せる詭弁やパラドックスを生み出してしまう性質もあります。それらの中には、魂とか、世界とか、造物主とかといった概念も含まれます。これらは感性で感知できない点で、客観的・科学的に実在するとは言えません。ですが、悟性カテゴリーに沿ってより根源的なものを探求していけば、必然的に導き出される哲学的理念でもあります。実在するとは言えないのに、実在しないと否定して捨てることもできません。なぜこんな理念が生まれるのか。ここにカントは、理性と哲学の真の目的を見い出します。

理性と哲学が実証不能な根源的概念を求めてしまう理由。それは、根源的に不可測な自分の生の中で、いかに行動するべきか、いかに生きるべきかという、行動指標を求めるからです。理性は、進むべき理想を作って人間に示し、導いてくれる灯火です。

それに従うか否かは、意志の問題。

2016年1月17日日曜日

哲人の記 9  パスカル


何かを認識することと何かを信頼することは、別のことです。神についても、その存在を認めることと、その存在を信頼することは、別のことでしょう。

神は、科学的には観測できません。その点では、物理的には実在しない人間の人格や、正義や愛、基本的人権、あるいは民主主義や平和主義の正当性などと等しいと言えます。つまり、全てその実在についての科学的根拠はありません。一人の人間でも、その人の友、恋人、家族、敵の前で、その人がどんな役割を果たしているかにより、認識される人格は異なります。ある人はあなたを信頼できる人と認識して友となり、ある人はあなたを信頼できない人と認識して敵となるかもしれません。その人格を認識することと、その人格を信頼することは異なります。認識があっても、信頼がなければ、協力し合う関係は築けません。

17世紀のヨーロッパ。キリスト教によって秩序と文化を育んできたこの地は、コペルニクスやガリレイ、デカルトなどの登場により近代合理主義が開花していきます。そんな時代、数学や物理の研究において早熟の天才と言われた哲学者がいました。名前はブレーズ・パスカル。10代で機械式計算器を開発したり、幾何学におけるパスカルの定理を発見したり、力学におけるパスカルの原理を発見するなど、30歳までに数学と科学の歴史に名を残す偉業を成し遂げています。

 その一方で彼は、デカルトのように理性によって神の存在を証明しようとしたり、または否認しようとする当時の合理主義を批判し、敬虔なキリスト教徒として、「キリストの愛」、「神の律法と恩寵」、そしてそれを伝える「聖書」という物語への信頼を表明し、唯一の正しき宗教として擁護しました。

キリスト教の神は、人間に愛の癒しをあらしめている存在であり、社会に倫理と法をあらしめている存在です。もし、聖書の物語を偽とし、この宗教を偽とするなら、それはヨーロッパの秩序を作った愛の倫理をも偽として破壊することになります。愛がイエス=キリストを起源とする以上、その物語の権威を信じなければ、愛の倫理が否定されてしまうのです。理性は、この世界にある諸々の科学的実在から、世界を存在させる神的存在を想定することはできます。しかし、神の正義や愛が信頼できるものかどうかは示せません。正義や愛に、科学的根拠はないわけですから。

パスカルは、神の正義と愛を信頼することは、「賭け」であると言います。もし正義と愛の神が存在しないのなら、信頼してもしなくても世界と自分に何の危害もありません。どちらにしたって、世界と自分に不正と憎しみが蔓延するだけです。でも、正義と愛の神が存在するなら、信頼する者には神の愛と天国が与えられ、信頼しない者には罰と地獄が与えられます。だから、信頼することは、信頼しないことより、確率的に優越することになります。パスカルはそう言って、キリスト教信仰を、合理主義時代の無神論の批判から、擁護しようとしました。
 人も神も、信頼するとは賭けること、なんですね。

2016年1月11日月曜日

哲人の記 8  デカルト


この世界の様々な事がらについて僕たちになされている一般的な説明は、本当に正しいのでしょうか。世間的通説は往々にして覆されますし、歴史上の事件から健康科学まで、学術的な定説とされていたものが覆されることも少なくありません。何が真実?何が真理?分からない時は、疑えそうなことは全て疑ってみるという方法があります。方法的懐疑です。

「我思う、故に我あり」とは、あらゆる知識や感覚から、世界と自己の存在、そして神にいたるまで、疑うことのできる全ての事物を疑った16世紀の哲学者デカルトの言葉です。全てを疑ってみた彼は、最後に、疑っていること自体は疑いえない事実であると考えます。なぜなら、疑うことがなければ、逆にどんなインチキくさいことでも全ては疑いえない真実になってしまうからです。疑う、即ち考えるという精神活動自体は疑いえない以上、それを行っている「私」は間違いなく存在するということになります。この明晰判明な事実が、彼の哲学の第一原理となりました。

  ヨーロッパ文明は、ギリシャ哲学とキリスト教を軸にして生まれてきました。ギリシャ哲学の代表プラトンの思想は、4世紀のキリスト教思想家アウグスティヌスによって、ローマ帝国内に広がったキリスト教信仰に取り入れられ、その神学の土台とされたのです。イデアという設計図を基に世界を創造した造物主たる神の摂理と一致するのは、イデアを認識して真理か否かの判断を下せる人間理性だけある、というプラトンのイデア論は、唯一神信仰たるキリスト教の神学に適していたため、この世界観が中世ヨーッロッパ世界の社会と文化を形成することになります。

ヨーロッパにはやがて、ギリシャ・ローマの文明を直接継承・発展させたイスラム教世界の諸学ももたらされ、プラトンの弟子アリストテレスの哲学も伝わり、カトリック教会の秩序の下で、観念論的なプラトン主義と経験論的なアリストテレス主義を統合しようとしたトマス・アクィナスなどの働きによって、スコラ学という体系的学問が形成されました。しかし、このスコラ学には、聖書の記述に反する学説は決して認めることができないという宿命がありました。デカルトと同時代に、スコラ学の説く天動説に反し、コペルニクスの地動説を支持したジョルダーノ・ブルーノは異端審問で火刑となり、ガリレオ・ガリレイは終身刑となりました。

ガリレイ同様、最も純粋な論理的思考である数学によって記述された事象のみが明晰判明な事実、科学的事実だと考えたデカルトは、聖書に矛盾しない体系に固執するスコラ学と決別し、新たな哲学体系の構築を目指します。そのために、方法的懐疑に続けて行ったのが神の存在証明でした。彼は、明晰判明な「考える私」の存在を見出した理性がある以上、それを成り立たせ、それと合致する摂理の源たる神も存在するとし、己の哲学の根本にも神を置くことで、聖書を解釈できる唯一の権威として君臨するカトリック教会とスコラ学に対抗しました。

数学による全自然界の記述を夢見て彼が構築した機械論的世界観。この世界観に基づく近代科学革命は、彼の死後、まさに数学によって世界を描写したニュートン力学の登場によって実現されます。

2015年12月7日月曜日

哲人の記 7  パウロ

 先哲の深遠な思想や哲学を学び、定められた戒律や法に従って日々精進すれば、シャカの説く覚者や、孔子の説く君子や、荘子の説く真人などの、理想的な精神や人格を獲得できるのかもしれません。でも、それは誰にでも到達できるような境地ではありません。では、万人にも開かれた理想的な心の境地があるとしたらどうでしょう。たぶん、それを手にするか否かは、僕たちのお気に召すまま。

古代ユダヤ人は、エジプト王家出身の伝説的預言者モーセの導きで、世界を存在させる存在を神として祭り、殺人の禁止から食事の仕方まで生活の細部にわたる厳格な律法を奉じる宗教を得ました。その宗教は、ユダヤの祖アブラハム以来の民俗信仰を継承しながら、強国アッシリアやバビロニアによる侵略や強制移住という過酷な民族的経験を乗り越える過程で、自民族だけでなく、全人類に平等な主である神への信仰へと発展します。しかし、紀元前1世紀後半、ユダヤ人の国イスラエルは再び大国ローマ帝国の属州としてその支配下に服すことになり、宗教においては、神の祭祀を司るサドカイ派と神の律法を重んじるパリサイ派が対立し、民族の主導権を競い合うようになっていました。

 そうした状況のユダヤ人社会で、パウロは生まれます。彼はパリサイ派に属して律法の知識に長じていた上に、当時の国際言語であったギリシャ語を話すバイリンガルでもあり、ローマ市民権を持つエリートでもありました。パウロは、ギリシャ的教養と知性にも恵まれていましたが、それ以上に、モーセ以来の律法を忠実に守ることこそが、神の創造した世界に生きる人間の励むべき生き方であるという信念を持っていました。

さて、パウロと同時代のイスラエルに、一群の供を連れて各地を巡り歩いていた大工出身の一人の男がおり、人々の耳目を引いていました。彼には祭司の資格がある訳でもなく、膨大な律法知識がある訳でもありませんでした。彼にできることと言えば、病人・貧者・障害者・罪人・売春婦など、社会に捨てられた人々と交わり、彼らを癒すことだけでした。それも、「心から癒しを求めている人」しか癒せませんでした。強い者、富める者、正しき者は癒せませんでした。そして、律法の解説ではなく、譬え話で神とその愛について伝えるだけでした。その男イエスが人々に称えられるようになると、祭司たちと律法学者たちは、その権威と誇りが傷つけられるのを恐れました。イエスは囚われ、神殿と律法を穢した罪で十字架にかけられて死にます。

その死後、彼の弟子たちが神の愛についての説法とその癒しの業を継承し、イエスの言葉と行動は復活します。パウロは当初パリサイ派としてその彼らを迫害する側にいましたが、己が迫害する人々との交わりの中で、厳しい律法に生きる難しさに疑問を持つようになり、癒しを求める者を癒し、心の救いを求める者の心を救うイエスという存在に傾倒し、回心するに至ります。そして、イエスこそが自分たちを神に取次いでその愛に導いてくれるキリスト(救い主)であるという真理を明確にし、新たな信仰の体系を築きました。
 
 ここに、キリスト教が誕生しました。

2015年5月27日水曜日

哲人の記 6  荘周

 部屋に音が響きます。でも、誰もいなければ、そこにあるのは空気の振動だけです。空気振動を音に変換する聴覚を持つ生き物がいなければ、音はその空間に存在しません。壁に物の姿が映ります。でも、誰もいなければ、そこにあるのは光の波動だけです。光を色・映像に変換する視覚を持つ生き物がいなければ、映像はその空間に存在しません。音や色に限らず、匂いも味も質感も、生き物の五感がなければ世界に存在できません。

 あなたが1匹のハエだとします。あなたの前に机と椅子があります。でも、あなたは机や椅子という言葉を知らず、その概念を知りません。だから、目の前に現れたあなたの飛行を遮るそいつを、机と椅子という二つの家具として発見することはできません。そこに机と椅子を発見できるのは、その概念を持った人間だけです。言葉が、机と椅子を独立したモノとして、他のものから切り分けてくれなければ、それぞれは独立した物体として存在しせん。

 人間の前にある現実は、五感や言語によって作り出された現象の世界です。とは言え、五感や言語を越えた真の実在が現象の奥に無ければ、現象も生まれようがないはずです。
 
 2千5百年前、乱世の中国で孔子こと孔丘が、礼と仁を貴ぶ思想を軸に弟子たちに学問を教える学団を作った後、中国各地には様々な学団が起こり、様々な思想・哲学が生まれます。礼と仁の孔子の教えを継ぐ儒家、無差別の愛と非戦非攻を説いた墨家、法治主義を説いた法家、論理学による思想の整理に努めた名家など、互いに批判対立しあいながら、活発な活動を見せていました。その中で、貧窮の生活を送りながら、それを苦とする人為的に構築された世界観を脱け出て、現象の世界を成立させている真の実在「道(タオ」との一体化を理想としたのが、荘子こと荘周です。

 荘周は神話的思想家である老子とともに道家と呼ばれます。その著作「荘子」は、何千里もの体長を持つ魚や鳥を登場させるなど大げさな寓話を用いて、読者にまず人間社会の卑小さを感じさせます。それは、地球や宇宙の数万年数億年規模の歴史を学ぶことで、人類の歴史と存在を「小っちゃ!」と感じさせるのと同じ効果を持ちます。それにより、貧富の差や身分の差、能力の差、美醜の差など人間社会で認められている価値規範は、愚かしいほどに微小な差異に基づいたものであることが意識され、絶対的だった価値観が相対化され、その価値体系が解体されてしまいます。そこから、富と貧、正と邪、美と醜、善と悪、真と偽などの二項対立は、一方があることで他方が存在できるもので、世界を有らしめる「道」においては万物は斉同なんだと、荘周は説きました。

 知覚や理性の作る現象界の虚構を指摘し、そこからの解脱、「道」との一体化、無為自然を説く思想は、後に道教へと吸収され、孔子を祖とする儒教とともに、中国文化の基盤となります。

山田太郎

2015年5月24日日曜日

哲人の記 5  孔丘仲尼

  人間は社会的動物です。お互いに関係を持ち、共存していくために、秩序のネットワークを集団的に構築します。子供たちは、自分の生まれ育つ人間集団のルールに取り込まれて、ネットワークを構成する端末の一つになることで、初めて、ただの生物ではない人間になれます。

    人間社会のネットワークを構築しているルールには、大きく分けて二つのものがあります。一つは言語で、もう一つは礼儀です。外国人が、滞在する異国の地で最も困り、最も気にするのもこの二つでしょう。でも、勝ち組になること、負け組にならないことが目指される実力主義の時代には、古い礼儀はなにかと疎んじられるもののようです。

    今から2千5百年前の中国は、周王朝の権威が落ちて、諸侯が覇を競い合う戦乱の時代であり、諸侯もまた配下の貴族や更に下の者たちに地位を奪われる下剋上の世界でした。そんな実力主義の時代に現れたのが、諸子百家と呼ばれる哲学者・思想家たちで、彼らは競って社会ルールの再編を図りました。孔子こと孔丘仲尼は、その先駆け的存在です。その孔丘が重視したルールは、戦乱と実力主義の風潮の中で軽んじられることも多くなった、祖霊祭祀など周王朝伝統の古き礼法でした。

    彼は、ルールである「礼」の前提として、他者に対する思いやりの心「仁」を不可欠なものとしつつ、その「仁」は「礼」によって初めて目に見える実体を持つことができると考えました。ちょうど、言葉の意味は音声や文字など言葉の形式が与えられることで初めて実体を持つというのと同じような、そんな関係が「仁」と「礼」の間にはあるようです。そして、「仁」と「礼」を合わせた「德」を、学問と実践によって身に着けた「君子」が、理想の人間であると説きました。そして乱世の中で、そんな君子を指導者と仰ぐ国家の実現、「仁」と「礼」による秩序の回復を目指しました。

    その一方で、合理主義に徹し、神や霊など理性的に認識できないものについては語ることを戒めました。神霊は、世界を認識の対象と見なす精神態度の前には現れず、そのため科学的には実在しません。でも、森羅万象を、自分と交流し関係を持つ対象と見る精神態度の前には、実在する相手として立ち現れます。だから孔丘は神霊を、学問的には語るべきでない、ただ敬うのみの存在としました。

    孔丘の、古き良き礼法への回帰や他者を思いやる心の教えは、既成の秩序を打ち破る下剋上と、敵を出し抜く権謀術数が求められる時代の実力主義者たちには受け入れられませんでした。彼の説く、孝・義・信・忠のいずれも、時代によって覆されました。また、論理的な独断を避け、学習と実践経験によって偏りをなくそうとする中庸の態度は、競争社会ですぐに役立つ合理的知識ばかりを求める二千五百年前の人々には、ちょっと難解過ぎたようです。孔丘は弟子たちとともに長い流浪の旅に出て、自分たちを採用してくれる王侯が現れるのを待ちますが、ついにその機会には恵まれませんでした。

    ですが、深い仁徳を身につけた彼は、生前から聖人と敬われ、死んで数百年後には神として祭られてしまいました。孔丘の言行録「論語」と、彼を宗祖として信仰する儒教が、やがて東アジア文明の礎となります。

山田太郎