何かを認識することと何かを信頼することは、別のことです。神についても、その存在を認めることと、その存在を信頼することは、別のことでしょう。
神は、科学的には観測できません。その点では、物理的には実在しない人間の人格や、正義や愛、基本的人権、あるいは民主主義や平和主義の正当性などと等しいと言えます。つまり、全てその実在についての科学的根拠はありません。一人の人間でも、その人の友、恋人、家族、敵の前で、その人がどんな役割を果たしているかにより、認識される人格は異なります。ある人はあなたを信頼できる人と認識して友となり、ある人はあなたを信頼できない人と認識して敵となるかもしれません。その人格を認識することと、その人格を信頼することは異なります。認識があっても、信頼がなければ、協力し合う関係は築けません。
17世紀のヨーロッパ。キリスト教によって秩序と文化を育んできたこの地は、コペルニクスやガリレイ、デカルトなどの登場により近代合理主義が開花していきます。そんな時代、数学や物理の研究において早熟の天才と言われた哲学者がいました。名前はブレーズ・パスカル。10代で機械式計算器を開発したり、幾何学におけるパスカルの定理を発見したり、力学におけるパスカルの原理を発見するなど、30歳までに数学と科学の歴史に名を残す偉業を成し遂げています。
その一方で彼は、デカルトのように理性によって神の存在を証明しようとしたり、または否認しようとする当時の合理主義を批判し、敬虔なキリスト教徒として、「キリストの愛」、「神の律法と恩寵」、そしてそれを伝える「聖書」という物語への信頼を表明し、唯一の正しき宗教として擁護しました。
キリスト教の神は、人間に愛の癒しをあらしめている存在であり、社会に倫理と法をあらしめている存在です。もし、聖書の物語を偽とし、この宗教を偽とするなら、それはヨーロッパの秩序を作った愛の倫理をも偽として破壊することになります。愛がイエス=キリストを起源とする以上、その物語の権威を信じなければ、愛の倫理が否定されてしまうのです。理性は、この世界にある諸々の科学的実在から、世界を存在させる神的存在を想定することはできます。しかし、神の正義や愛が信頼できるものかどうかは示せません。正義や愛に、科学的根拠はないわけですから。
パスカルは、神の正義と愛を信頼することは、「賭け」であると言います。もし正義と愛の神が存在しないのなら、信頼してもしなくても世界と自分に何の危害もありません。どちらにしたって、世界と自分に不正と憎しみが蔓延するだけです。でも、正義と愛の神が存在するなら、信頼する者には神の愛と天国が与えられ、信頼しない者には罰と地獄が与えられます。だから、信頼することは、信頼しないことより、確率的に優越することになります。パスカルはそう言って、キリスト教信仰を、合理主義時代の無神論の批判から、擁護しようとしました。
人も神も、信頼するとは賭けること、なんですね。
0 件のコメント:
コメントを投稿